1. 事故を防ぎたい「現場の焦り」と、管理される「利用者の恐怖」
現場で働いていると、ふと考えることがあります。
「もし自分が、このベッドの上で利用者になったら――」
夜勤の最中、寝てなんかいられない。
目の前の利用者のオムツを替えている、まさにその最中に、反対側の部屋でセンサーが鳴る。
脳内をよぎるのは、
「ベッドからの転落か、起き上がってからの転倒か」という恐怖の二文字。
だから焦って、そちらへ走ってしまう。
本人が無事だと分かった瞬間、思わず「ふぅー」と大きなため息が漏れる。
事故を防ぎたい。
責任を守りたい。
その焦りや安堵は本物だし、誰かを傷つけたいわけじゃない。
けれど、それを
「鍵のない部屋で、ただ天井を見上げている側」の視点に立ってみたらどうだろう。
オムツを替えてもらいながら、向こうでセンサーが鳴った瞬間に走り去っていく背中。
無事を確認して、ベッドの陰でホッとため息をつく姿。
その一連の動きは、あの人の目にどう映っているのか。
安全と引き換えに、私たちは相手のプライバシーや安心感を削ぎ落としていないか。
ふと、怖くなることがある。
2. 「管理される日常」の延長線上にあるもの
そして、この「事故を防ぐための管理」が日常になると、それは認知症の人への接し方にも影を落とし始めます。
🌿 認知症ケアで本当に怖い現実
・忘れることそのものよりも:
世間では「記憶を失うこと」が怖がられがちですが、現場で本当に怖いのはその先にある現実です。
・先回りされる絶望:
「危ないから」「分からないだろうから」と意思を確かめずにすべてを先回りされること。
・尊厳の剥奪:
忘れたことを責められ、自分で決める機会が奪われる小さな積み重ねが、「どうせ自分なんて」という無力感を植え付ける。
四六時中見張られている恐怖も、
意思を無視して先回りされる絶望も、根っこはまったく同じなのだと思う。
3. 私たちは「安全」と引き換えに何を差し出しているのか
「施設に預ければ、プロが安全に世話をしてくれる」
世間はそう思いがちです。
そこには、綺麗事で塗り固められた安心感がある。
でもその裏側には、
・鍵のない部屋があり
・四六時中他人の気配に晒される現実があり
・現場が「事故を起こしてはいけない」というプレッシャーに怯える構造がある
悪いのは現場の人間でも、そこに身を預ける家族だけでもありません。
けれど、
「完璧な安全」を求めすぎるあまり、私たちは大切な何か——「自分の尊厳」や「ひとりで泣く自由」を置き去りにしていないでしょうか。
もし明日、自分が動けなくなったとき。
管理されるだけの毎日に怯えるのではなく、
最期まで「ひとりの人間」として尊重される社会であってほしい。
現場の裏側を知るからこそ、私たちはこの「安全と尊厳のジレンマ」から目を背けてはいけないのだと思います。

コメント